解釈違いのオンパレード

本日、桃部屋企画でした。おわった。おわってしまった。過去完了。
ありがとうございました。本当によかった。わたしからしたら、わたしが本当にやりたいこと、みたいものを見れたので満足です。お腹いっぱい。幸せになれた、幸せになった。

でも同時に、めちゃめちゃ傷を抉られてしまった。

私は面白くない。

面白さというのは色々ベクトルがあって、お笑い的な面白さとか、人間的な深みとか、興味的な意味とか、色々あると思うんですけど。
私がいる落研で求められるものって、絶対的にお笑い的な意味の面白さなの。どれだけ笑えることが言えるか、とかなのかな?私にはわからないから具体的にどうとは言えないけど。
私にはそういう面白さはない。というかそういう面白さって絶対先天的なものだから。センス。
落語そのものなら、きっとテクニックを磨こうと思えば、才能の違いが出るのは最初と最後だけだと思ってて、元々センスのあるって才能と、天井が高いって才能がある以外は、ある程度のところまでは絶対稽古すればみんな到達できるの。努力する才能云々については置いておいて。だからまあ頑張ればそれなりに人に見せられる作品は作れるし、上手くはなれるけど、面白くなるってのは努力ではないと思う。
理論詰めの面白さってのを経験したことがないからかもしれないけれど、私はずっとそう思っている。

大喜利に求められる瞬発力、会話力、表情、身振り手振り、ワードや構想の発想力、そして自己意識。
ユーモアはセンスなんだ。私は絶対そこには立てない。

立てない自覚があるからこそ、不安で仕方がない。私は落研にいたって、求められるお笑い的なオモシロに応えられないし。そうじゃない立ち位置を作るしかなくて。

落研にいたいと思うのだ、だって好きな人達が好きな場所だから。好きな人を理解しようというわけではなく、好きな人の好きな場所を経験したいのだ、そして近くで、好きな人達を見ていたいと思うから、なのだ。
それは同時に、落研という場を、落語というものを通して、好きな人を追いかけているだけなんだ。追体験しようとしているだけ。私は落語が好きなわけではないのかもしれない、という考え方もできてしまう。
そうなのかも。気づいてないだけで。言われて気がついたけど、私、好きな人が好きなだけなのかも。嫌すぎる。学生落語が好きとか、どの面下げていうというのだ。気持ち悪い。

私は何になればここに居られるのだろうと思う。ニコニコ笑って話を聞いていればいいなんて期間は3月までで打ち止めなのだ。ここから先はそうではない、きっと。気持ち悪いと思うけど、本当の本当に私はあの人たちが好きなんです。もっと見たいし、いつまでも応援していたい。それが近くであれば、色々な話も聞けるし。遠くにいたら見えないものも見えるはずだから。私はそうありたいのだから。

好きって沢山言っちゃうけど、本当なんです。すみません。

面白くない私をそのままで置いていたくない私です。別の面白さを持った私を必要としてほしいというか、私はそこにいるための努力をやめたくない。怠りたくない。好きだから、好きな場所を大事にしたいというか、憧れであってほしいというか、勝手な私の都合だけど。あの人たちの隣にいる私が、こんな私でいていいわけがないと思うからだ。



考えすぎって言われるけど、これが私の性分なので、考えずにはいられなくて。それほど愛が深いということにしてください。プライドの高い女なので、あなたの邪魔をしない程度に。